28
雨が、降ってきたのかと思った。
だが、空は青く晴れて、雲一つない。
街路樹を見ると、風にそそのかされた木の葉がざわめいている。それが、雨音に似ていた。
林立するコンクリートの鋸壁。太陽に炙られたアスファルトが焼けて、靴を通してその熱が伝わってくる。
陽炎の立ちこめる人気のない団地群。その隙間をシンジは一人、歩いていた。
本来は、まだ学校にいるべき時間だったが、今日は零号機の起動実験がある。それで早退をしてきている。直接本部に行っても良いのだが、レイと一緒に行く約束をしていたので一旦戻るところだった。
レイはと言うと、学校を休んで準備に専念するよう命じられていた。
準備と言っても特にするべき事はなくて、心の準備と言った意味合いである。なにしろ以前の起動実験は、失敗したあげくに大怪我まで負っている。その胸の内は、きっと打ち上げ前の宇宙飛行士に似ているだろう。
402号室。
「ただいま」
団地の鉄製ドアが、独特の音をたてて自己主張する。
「……」
迎える人は、誰もいない。
シンジは、部屋の窓を開いた。すると、新鮮な風が部屋に流れ込んでくる。
その部屋は、シンジが住むようになってから急激に変貌を遂げた。
壁には、壁紙が貼られて、床には絨毯が敷かれている。
磨き上げられた窓にはレースのカーテンと、涼しげな空色の遮光カーテンがさがっている。風がそよぐごとに、カーテンの裾が舞う光景は、優しい時の流れを感じさせてくれた。
テーブルとか椅子とか、タンスと言った調度品は、品のいい籐家具で統一されて、観葉植物が、濃い緑色をもって彩りを引き立てている。
テレビとか、ゲームの類はない。壁際に小さな本棚が一つ。部屋の片隅にはシンジのチェロと、レイのヴァイオリンが置かれていた。
シンジは、籐椅子に腰掛けると背もたれに体を預けた。
「ふう…」と、疲れを感じさせるため息を一つついて、目を閉じる。
カタン…シャッ
バスルームの方からの人の気配に、弾かれたようにして身を起こす。そして特殊ベークライトのように硬化した。
「おかえりなさい、お兄ちゃん…………………どうしたの?鼻から血が…」
そこには生まれたままの姿に、バスタオルを首にかけただけのレイが立っていた。
新世紀エヴァンゲリオン ファンフィクション小説
「運命の転輪」 たくさん作
−第12回−
29
街を歩き、電車に乗り、ネルフ本部へと向かう二人。
囁きすら、聞こえるところにお互いを置く。
それでいて言葉を交わすことはほとんどない。無理に話題を探さなくても、互いの気配を感じるだけでそれが心地いい。シンジとレイは、そんな関係にある。
本部のゲートをくぐる。
「ねぇ。レイは怖くないの?また、あの零号機にのるのが」
長い下りエスカレーターに立ちつつ、シンジはレイに話しかけた。
レイは、いつものように前を向いたまま答える。
「どうして?」
「大怪我したのって、前の実験でだろ。平気なのかなって?」
「あなただって、初号機に乗ってるわ」
「僕はいいんだ。レイや、みんなを護るって決めたから…僕だけでいいんだ」
レイは、初めてシンジに振り向いた。
悲しそうに眉を寄せて詰め寄る。そして、左手を振っていた。
パンッ!
シンジの頬が鳴る。
「……」
レイは、シンジを残したままエレベーターを駆け下りていった。
30
『レイ、聞こえるか』
「はい」
エントリープラグの中。
ゲンドウの声を合図に、レイはLCLを胸いっぱいに吸い込んだ。
『これより零号機の再起動実験を行う。第一次接続開始』
『主電源コンタクト』
『稼働電圧、臨界点を突破』
『了解、フォーマット、フェィズUへ移行』
『パイロット零号機と接続開始』
『回線開きます』
『パルス及びハーモニクス正常』
『中枢神経素子に異常なし』
『絶対境界線まで、2.0』
『1.8』
『1.5』
『1.3』
『1.1…』
…………
………
……
…
4歳だったか、5歳だったか…そんな頃からレイとシンジは一緒に暮らしている。
何もかも一緒。それが当たり前だった。
一緒の布団で眠り、一緒にお風呂に入る。一緒に習い事をして、一緒に遊びに出かける…それが当然だと思っていた。
しかし、小学生も高学年になれば、異性を意識するようになる。
それは、子供が大人へと成長する過程の一つ。誰であろうと避けて通ることは出来ない。
そんな時期に、仲良くしている男女があれば、それはからかいと冷やかしの対象となってしまう。冷やかされて超然としていられるほど、自信を持てる歳でもなくて…二人の関係がクラスメートの視線を集めていることを察すると、お互いにどちらからともなく距離を置くようになった。
ふと気づくと、独りでいる。
「………さみしいのね」
それまで感じることのなかった感情に、レイは身を震えさせた。
小学校5年のことだった。
31
きっかけは、何でもいい。
生け贄にする名目があればいいのである。
一人だけ髪の色が違う。瞳の色が違う。
それは、異端の証だった。
上手に、人に接することが出来なかったレイには、護ってくれる友垣(ともがき)もない。唯一、シンジの存在だけが、レイを護っていた。しかしそれももうない。
独りになったレイを、待ちかまえていたかのようにいじめが襲った。
無視、嫌がらせ、仲間はずれ…暴力を除いた陰湿ないじめが、水面下で、密かに始まり、シンジに気づかれぬように少しずつエスカレートしていった。
シンジが、それに気づいたのは偶然であるが、必然でもある。
帰宅して、宿題にとりかかろうとして、学校に教科書を忘れたことに気づいたシンジが、レイから教科書を無断拝借したことにより、発覚した。
教科書を彩る悪戯書き、それはいわれのない罵詈雑言…破かれくてしゃくしゃになったページ。靴痕の残る表紙。
シンジは愕然とした。そして、折られた鉛筆、ランドセルや鞄に詰められたゴミ、汚物を発見するに至りシンジは、怒りに我を忘れ、悔し涙を流した。
「どうして言ってくれなかったのさ!」
「……」
詰め寄るシンジに、レイは始終無言だった。
シンジにうち明ければ、シンジはきっと自分を護ってくれる。
それは、レイの中で確信されていたことである。だが、それは同時にシンジを巻き込むことでもあった。
だんだん苛烈さを増していくいじめ。それが、シンジにも向けられてしまうことだけは、避けなければならない。いじめられるのは自分だけでいい。
だから、黙っていたのである。
「……」
そんなレイの頬を、シンジは叩いた。
「自分だけ嫌な思いして、傷ついて、それでも僕を気遣って我慢して、耐えて…一人だけでそんなの酷いよ、ずるいよっ!」
これまで押しつぶして殺してきた感情が堰を切ったようにこみ上げて来た。
レイは、シンジに取りすがって、泣いた。
二人の戦いが始まった。
学校で、教室で…二人は可能な限り一緒にいるようにした。
それはクラス全員にたいする宣戦布告でもある。
敢然とNOと声を上げ、断固として立ち向かうシンジとレイにたいして、クラスメートの全てが敵に回った。
二人の関係を、あからさまに冷やかし、あまつさえ暴力の牙を向けようとした者もいる。
しかしシンジは「僕は絶対に逃げない、どんなことがあっても逃げない」と断固退くことをしなかった。レイも無言のままシンジの傍らから決して離れなかった。
互いの怪我を手当てしながら、二人はお互いの痛みを自分のモノのように受け止めたのである。
そんなことが一年間、続いた。
情勢が変わったのは6年生に進級し、産休に入った担任に代わって一人の男性教師が赴任してきてからである。
その教師は風貌からして変わっていた。
いつもよろよろのスーツを着て、始終無精ひげをはやししている。だが、不思議な魅力をもっていた。子供を、一人の人間として扱い、それぞれに、こう語りかけるのを常としていた。
「君は、それをどう思う?」
教科書通りの回答を、彼は認めない。本人が何をどう感じ、どうしてそう思うかをとことん追求するのである。
彼は、レイやシンジに対するいじめについて、頭ごなしに責めようとはしなかった。
ただ、問うのである。「それは、君の考えなのかい?」と。
レイやシンジにたいして別段恨みがあるわけでもなく、ただクラスのムードに従っていじめに参加していただけの数名が、これで日和見にかわった。そこへ、担任教師から妙策を授けられたシンジが、一部の女子と接触したことから、情勢は一気に逆転する。
クラスの女子全員がシンジ側に寝返ったのである。女子全員を敵に回して、いじめを続けられるほど強い男子もおらず、こうしていじめは止んだのである。
小学校6年の夏休み前に、シンジとレイの身辺は平和になった。
二人が、独りでいたとしてもいじめられたり、仲間はずれに合うことはない。それぞれに友人とも呼べるクラスメートが出来た。
それでも、二人は常に一緒にいた。
もう、二人とも離れようとは思わなくなっていた。
『0.8』
『0.6』
『0.5』
『0.2』
『0.1…突破』
『ボーダーラインクリア。零号機、起動しました』
「了解。引き続き連動試験に入ります」
(これでやっと、私もお兄ちゃんと戦うことが出来る。お兄ちゃんを護れる)
胸に貯めたLCLを、おおきく吐く。溶けきれなかった呼気が、気泡となって浮かんでいった。
「碇。未確認飛行物体が接近中だ。おそらく第五の使徒だな」
冬月が電話を置く。ゲンドウの決断は早い。
「テスト中断、総員第一種警戒態勢」
「零号機はそのまま使わないのか」
「まだ戦闘には耐えん。初号機は?」
リツコが答えようとする前に、レイの声が発令所に響いた。
『私が、出撃します』
用語解説
友垣(ともがき)…友達のことです。
古い表現で、今ではほとんど使われませんが辞書にはちゃんと載っています。側にいて助けてくれる、そんな友人を指すのにふさわしいような気がしました。
いつもよりはホンのちょっと長めに…。
第12話です。いかがでしたでしょうか?
次回は、レイが出撃します。
Shinkyoの感想でございます
色が変わったのはイメチェンですかな?
レイのビンタ、シンジのビンタ・・・・・・
レイもシンジも結局は同じ気持ちなんですね。
いいなぁ、ここまで伝わる文章を書けるたくさんがうらやましい。
私も頑張らなくてはなりませんね。
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